動画配信中「松浦川の歴史」 「庄屋文書にみる唐津城築城年代の謎」 「『赤子養育仕法』にみる唐津藩の間引き防止策」
「史料で読み解く虹の松原一揆の実像」
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第81回講義「史料で読み解く虹の松原一揆の実像」
講 師: 山田 洋氏(松浦史談会)
開催日時:平成24年1月16日(月) 午後7時〜午後9時
開催場所:唐津ビジネスカレッジ(JR東唐津駅前)
参加費 :2,000円(大学生以下1,000円)
問合せ:からつ塾への参加申し込み・問合せ・ご意見はこちらからどうぞ
| ○講師紹介 山田 洋(やまだ・ひろし)氏 昭和11年佐賀市生まれ。 現在は松浦史談会事務局長として、主に唐津藩庄屋文書の解読と研究を行う。 唐津市文化財保護審議会委員、からつ塾運営委員。 |
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| 講義要旨 江戸時代、全国で起きた百姓一揆は約3000件に上ると云われているが、農民側からみて成功した例はほんの僅かである。明和8(1771)年唐津藩で起きた「松原寄り」と呼ばれる一揆は、参加した農漁民の要求がすべて通り大成功を収めた数少ない例である。 また、この一揆は当初1万数千人の農漁民が「虹ヶ浜御料境」に集結、後半は大庄屋代表が農漁民の諸要求を実現させるために藩側に働きかけるという一揆史上特異な形態をもつ。従って当然、庄屋側の指導者と農民側の指導者の存在が考えられ、その指導者達は数年前から綿密な計画を練っていたと思われる。その背景には、唐津藩の農村に根強く広がっていた「民間塾」の存在を見逃すことはできない。 虹の松原一揆に関する史料は、「虹浜騒秘録」や「虹浜鹵臭秘録」「御領分中人民強訴書」等がよく知られている。その外、佐賀藩多久領の役人や天領浜崎の庄屋達が、一揆の様子を具に見聞して報告した「御屋形日記」(多久市郷土資料館蔵)や「唐津御領分中百姓虹松原寄合一件」(吉井村庄屋文書)がある。また、庄屋文書の中には、数こそ少ないが「松原寄り」に関する貴重な資料が散見する。 今回はこれらの史料を読み解き、皆さんとともに虹の松原一揆の実像に迫ってみたい。 |
講義資料
テキスト
からつ塾講義「史料で読み解く虹の松原一揆の実像」(2012.1.16)
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講師 山田洋(やまだ・ひろし)氏(松浦史談会)
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![]() 山田洋先生講義「史料で読み解く虹の松原一揆の実像」(2012.1.16) |
![]() 山田洋先生講義の様子 (2012.1.16) |
![]() 山田洋先生と懇親会 (2012.1.16) |
「『赤子養育仕法』にみる唐津藩の間引き防止策」
講 師: 山田 洋氏(松浦史談会)
開催日時:平成23年1月31日(月) 午後7時〜午後9時
開催場所:唐津ビジネスカレッジ(JR東唐津駅前)
参加費 :2,000円(大学生以下1,000円)
西日本新聞(2011.1.20)ぴーぷる「江戸期の唐津学ぼう」
| 講義要旨 江戸時代の人口は約3000万人を上下して停滞していました。その原因はいろいろ考えられますが、農業生産力の乏しかった東北地方では、口減らしのために生子を殺す「間引き」が行われていたことが知られています。 唐津藩の古文書(「唐津藩高帳」)の中に、延享3年(1746)土井氏時代に調べた村方人口があります。これによれば、村方人口は59.639人で、その内男 33.979人、女25.660 人と記されていて、女が男よりも8.319人も少ないことがわかります。唐津藩にも口減らしのために女の子を間引く風習があったことは明らかです。 土井氏や水野氏の時にも、間引の禁止や、赤子養育米の支給をしたりしていますが、「赤子養育仕法」をつくり本格的に間引き防止対策に取り組んだのは、小笠原氏の天保4年(1833)からです。 小笠原氏は赤子方役所を設け、次の3点から間引き防止に取り組んでいます。 @「赤子養育取締仕法書」を作成して、懐胎届・出生届・出産時の村役人の立会い・流産防止・子添婆の心得等々細かな規則を設け、違反した者には厳しい罰を与えた。 A「赤子養育の歌」をつくり、間引きの罪悪感を強調し、赤子方 役人や村役人を通して間引き防止を訴えた。 B 生活が苦しく、生まれた赤子の養育が困難な者には「赤子養育 米」を支給した。 今夜は、唐津藩の間引きの実態やその対応策と成果等を、庄屋文書に残る「赤子養育方記」を通して、みなさんとご一緒に勉強してみたいと思います。 |
からつ塾講義「『赤子養育仕法』にみる唐津藩の間引き防止策」(2011.1.31)
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講師 山田洋(やまだ・ひろし)氏(松浦史談会)
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![]() 山田洋先生講義「『赤子養育仕法』にみる唐津藩の間引き防止策」(2011.1.31) |
![]() 山田洋先生講義の様子 (2011.1.31) |
![]() 山田洋先生講義の様子 (2011.1.31) |
「松浦川の歴史」
講 師: 山田 洋(松浦史談会)
開催日時:平成22年1月25日(月) 19時00分〜21時00分
開催場所:唐津ビジネスカレッジ(JR東唐津駅前)
参加費 :2,000円(大学生以下1,000円)
| 講義要旨 古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは「エジプトはナイルの賜物」という名言を残しましたが、古来大地を流れる川はその地に住む人々の生活を支え、文化を育んできました。 唐津平野を流れる松浦川は、万葉の歌人大伴旅人が「遊松浦河序」に詠い大いに宣伝したため、都人の間には未だ見ぬ松浦(まつら)への想いがふくらみました。 現在の松浦川は、寺沢志摩守の城下町づくりの中で改修されたものです。みなさんと松浦川の歴史を探るためにいくつかの設問を設けてみました。 @ 古代・中世の松浦河はどのように流れていたのだろう。 A 寺沢志摩守の河川改修には様々な困難があったと予想されるが、今に残る伝承から考えてみよう。 B 松浦川の川魚漁について C 松浦川の水運を利用した人々の暮らしについて D 松浦川の渡し舟について 今回は上記のような内容を「肥前国唐津領産物図考」や庄屋文書を読み解きながら、皆さんと一緒に考えてみます。 |
からつ塾講義「松浦川の歴史」(2010.1.25)
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講師 山田洋(やまだ・ひろし)氏(松浦史談会)
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![]() 山田洋先生講義「松浦川の歴史」(2010.1.25) |
![]() 山田洋先生講義の様子 (2010.1.25) |
![]() 山田洋先生講義の様子 (2010.1.25) |
「庄屋文書にみる唐津藩のキリシタン政策」
講 師 山田 洋(松浦史談会)
開催日時 平成21年6月29日(月) 19時00分〜21時00分
開催場所 唐津ビジネスカレッジ
参加費 2,000円(大学生以下1,000円)
| 講義要旨 天文18年(1549)、フランシスコ・ザビエルにより日本にキリスト教が伝来しました。織田信長は京都に教会を建てるなど、キリスト教の布教に積極的でした。西国の戦国大名のなかには、南蛮貿易の特権を得るために自らキリシタン(吉利支丹)大名となる者がありました。豊臣秀吉や徳川家康は、はじめはキリスト教布教に寛大な態度を示し、最盛期には全国で75万人の信者がいたといわれます。 しかし秀吉は1587年(天正15)抑圧に転じ、1596年宣教師ら26人を長崎で処刑しました(26聖人の殉教)。家康も1613年全国に禁教令を出し、キリシタン大名の高山右近らを国外に追放しました。 天草島原の乱後鎖国政策をとった幕府は、寺請制度の下で宗門改めや踏み絵により徹底したキリシタン弾圧を行ったため大多数の信者は改宗を余儀なくされましたが、一部には潜伏して信仰を守りぬく人々もいました(かくれキリシタン)。 唐津藩は寺沢氏の所領であった天草で天草の乱が起こったため、その後のキリシタン取締は他藩より厳しかったと云われます。毎年行った宗門改めも、キリシタンではないことを誓約させた後血判を押させています。また、鎮西町馬渡島には、長崎県外海町の黒崎から弾圧を逃れて信者達が密かに移り住んだという伝承があります。 今回は、唐津藩のキリシタン政策や、弾圧を逃れ信仰を守りぬいた馬渡島の潜伏キリシタンの実態を、今に残る庄屋文書を紹介しながら皆様とご一緒に勉強してみたいと思います。 |
![]() 山田洋先生講義「庄屋文書にみる唐津藩のキリシタン政策」(2009.6.29) |
![]() 山田洋先生と塾生の質疑応答の様子(2009.6.29) |
![]() 山田洋先生と塾生の質疑応答の様子(2009.6.29) |
H20年第10回特別講義
唐津商業高校出前教室「遺跡の語る唐津の原始・古代」
講 師 山田 洋(松浦史談会)
開催日時 平成20年12月18日(木) 13時30分〜15時00分
開催場所 唐津商業高等学校
講義要旨 日本は古くから大陸・朝鮮半島との文化交流の中で発展しました。唐津にはそれをしめす遺跡がたくさんあります。唐津という地名が物語るように、私達のふるさとはその文化を受入れる玄関口であったのです。今回は、菜畑遺跡・宇木汲田遺跡・柏崎遺跡・桜馬場遺跡・久里双水遺跡など全国的に有名な遺跡を通して唐津の原始古代を勉強します。 |
![]() 山田洋先生講義「遺跡の語る唐津の原始・古代」(2008.12.18) |
![]() 山田洋先生講義の様子 (2008.12.18) |
![]() 山田洋先生講義の様子 (2008.12.18) |
H20年第7回講義
「庄屋文書にみる唐津城築城年代の謎」
講 師 山田 洋(松浦史談会)
開催日時 平成20年7月28日(月) 19時00分〜21時00分
開催場所 唐津ビジネスカレッジ(旧唐津コンピュータ専門学校、JR東唐津駅前)
参加費 2,000円(学生1,000円)
講義要旨 今年は唐津城築城400年ということで、市をあげて数々のイベントが用意されているようだ。 唐津城は初代藩主寺沢志摩守が慶長7年(1602)築城にとりかかり7年後の慶長13年(1608)に完成したといわれている。まさに今年がちょうど400年目ということだ。 この根拠は秀嶋皷溪が著した『松浦記集成』などの郷土史誌による。しかし、唐津に残る「庄屋文書」を読んでみると、唐津城築城は慶長7年 築城説とそれより早い文禄年間築城説に大きく別れていることがわかる。また、豊臣秀吉の朝鮮出兵に駆り出された薩摩の武将の従軍日記によれば、唐津城は名護屋城築城と同時に秀吉の命令により諸国大名の「公役」として築かれことが考えられる。 私は、唐津城築城の時期については頼りになる藩政資料のないまま、学識のある庄屋たちの間で様々な意見が交わされていたとみる。 今回は、前半で唐津城の古地図を道案内に、今に残る城下の姿をスライドで散策し、後半では庄屋文書を参考にして、江戸時代の唐津城築城時期論争に、皆さんとご一緒に参加していくことにしたい。 お楽しみに・・・ |
からつ塾講義「庄屋文書にみる唐津城築城年代の謎」(2008.7.28)
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講師 山田洋(やまだ・ひろし)氏(松浦史談会)
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![]() 山田洋先生講義「庄屋文書にみる唐津城築城年代の謎」(2008.7.28) |
![]() 山田洋先生講義の様子 (2010.1.25) |
![]() 山田洋先生を囲んで懇親会の様子 (2010.1.25) |
H19年第2回講義
「庄屋文書にみる往来手形と庶民の旅」
講 師 山田 洋(松浦史談会)
開催日時 平成19年3月19日(月) 19時00分〜21時00分
開催場所 唐津コンピュータ専門学校(JR東唐津駅前)
参加費 2,000円(学生1,000円)
講義要旨 江戸時代、幕府は江戸防衛のために江戸に通じる主要街道や裏道に至るまで、50数カ所の関所を設けました。「出女に入り鉄砲」といわれるように、関所では江戸から出て行く女と入ってくる鉄砲を特に厳しく取り締まったようです。各藩も藩から出たり入ったりする人や物資を取り締まるため、藩境に番所(口留番所)を置いています。関所や番所を無事に通過するためには往来手形が必要でした。 唐津藩の江戸後期の庄屋文書には、農民の旅立ちのため庄屋が往来手形の発行を藩に願い出ている資料を数多く見ることが出来ます。その行き先は、伊勢参り・太宰府参詣・英彦山参り・金比羅参り等の寺社参詣が多いようです。また、温泉へ湯治や病気治療に出かける者もありました。しかし、手形を持っての旅は決して物見遊山の旅ばかりではありませんでした。なかには、他領へ出稼ぎに行くため家族ぐるみで往来手形を願出る者もあったし、手形持参で他領から働きに来る者もありました。 今回は、庄屋文書に残る往来手形を紹介しながら、江戸時代の庶民の旅への思いとその生きざまをご一緒に勉強してみたいと思います。 |
![]() 山田洋先生講義「庄屋文書にみる往来手形と庶民の旅」(2007.3.19) |
![]() 山田洋先生講義の様子 (2007.3.19) |
![]() 山田洋先生と塾生の質疑応答の様子 (2007.3.19) |
H18年9月特別講義
「庄屋文書にみる唐津藩領民の罪と罰」
講 師 山田 洋(松浦史談会)
開催日時 平成18年9月25日(月) 19時00分〜21時00分
開催場所 唐津コンピュータ専門学校(JR東唐津駅前)
参加費 2,000円(学生1,000円)
講義要旨 唐津には江戸時代の村の様子を知る上で貴重な庄屋文書が数多く残されています。これを見ると、江戸時代の庶民がどのような暮しをしていたかが、数百年の時空を越えて、まるで昨日のことのように見えてきます。 今回は『水野候演説書』にある「唐津藩の刑罰」についてお話をすすめながら、抜け荷・不義密通・賭博・倹約令違反・農業不精・赤子養育仕法違反・窃盗・過酒・河原者止宿など、唐津藩領民の罪と罰を通して、江戸時代に生きた唐津の庶民の生活の一端を覗いて見たいと思います。 |
![]() 山田洋先生講義「庄屋文書にみる唐津藩領民の罪と罰」(2006.9.25) |
![]() 山田洋先生講義の様子 (2006.9.25) |
![]() 山田洋先生講義の様子 (2006.9.25) |
| 左: 晩秋の松原。 ここに一揆衆 が集まりました。 |
右: 海浜館の2階。 塾長の挨拶。 |
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| 左: 山田講師の話。 海浜館横の 記念碑前にて。 |
右: 食事後の懇談。 手前左が講師。 |
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| 左: 平原の冨田家の墓所。 中央は才治の墓。無刻。 |
右: 才治記念碑をバックに記念撮影。 |
日時 平成16年4月24日(土) 午前10時から午後2時まで
集合場所 スーパーモリナガ駐車場(午前10時)
参加費 無料
参加者 5名
コース及び若干の説明(以下のとおり)
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1 宗田運平頌徳碑 見借庚申社下 享和3年(1803)弱冠17歳で見借村庄屋となり、村役としての多忙な仕事のかたわら関流の和算(数学)を学び、やがて江戸にもその名を知られる数学の大家となる。天保7年(1836)50歳の時『愛日亭』(民間塾)を開き論語等の儒学のほか、天文・暦法・数学を教える。『愛日亭』には農村の子弟のほか、唐津藩士も通って来た。明治の初期唐津の教育界で数学の大家として多くの人材を育てた小田周助もその一人である。明治3年(1870)没、享年84歳。『邑中老若男女へ教示記録』や、地動説・尾星(彗星)をわかりやすく解説した著書が岸田家文書に残存する。 遠景は、猿田彦神社。 (場所:神田郵便局から見借方面に走る。ヘアピンカーブを下る場所に碑がある。直ぐ先には猿田彦神社。集合場所のスーパーモリナガからは、車で約5分。) |
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2 土井大炊頭利延の墓所 神田 愛宕山 |
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3 吉武法命の墓所 神田 宮町の丘 |
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4 奥正岑の墓所 西寺町 自南寺 |
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5 無量軒学校跡 海士町 |
(最終更新日 2012年2月26日)