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「第1回民間塾ウォークラリー」が開催されました

  • 開催日時:平成16年4月24日(土)午前10時から午後2時まで
  • 集合場所:スーパーモリナガ駐車場(午前10時)
  • 参加者:5名
  • 資料(PDF)

開催模様

1)宗田運平頌徳碑 見借庚申社下
享和3年(1803)弱冠17歳で見借村庄屋となり、村役としての多忙な仕事のかたわら関流の和算(数学)を学び、やがて江戸にもその名を知られる数学の大家となる。
天保7年(1836)50歳の時『愛日亭』(民間塾)を開き論語等の儒学のほか、天文・暦法・数学を教える。
『愛日亭』には農村の子弟のほか、唐津藩士も通って来た。明治の初期唐津の教育界で数学の大家として多くの人材を育てた小田周助もその一人である。
明治3年(1870)没、享年84歳。『邑中老若男女へ教示記録』や、地動説・尾星(彗星)をわかりやすく解説した著書が岸田家文書に残存する。
遠景は、猿田彦神社。
(場所:神田郵便局から見借方面に走る。ヘアピンカーブを下る場所に碑がある。直ぐ先には猿田彦神社。集合場所のスーパーモリナガからは、車で約5分。)



2)土井大炊頭利延の墓所 神田 愛宕山
唐津藩土井時代3代目の藩主。元文元年(1736)14歳で藩主となり、延享元年(1744)22歳で没。墓石は和多田村先石から切り出し、郡中の百姓を使って2年越しで完成した。
(場所:通称高取山にある。県営上神田団地のすぐ横。地名は神田風早。土井候墓所の手前には高取伊好の墓所もあります。) 



3)吉武法命の墓所 神田 宮町の丘
土井時代、唐津藩の代官であったが、奥東江の「奥流の学」に深く傾倒し、その教えを広く庄屋層に広め民間塾の基盤づくりをした人。
47歳で隠居し母の墓所のある山田村から海士町の無量軒学校、やがて彼の高弟達が開く民間七塾へとその教導の場を広げて行った。
法命の教育は書物を輪読・講義するばかりでなく、「学談」と呼んで学習したことを互いに討論し合い批判力を高め、学びえたことを日常生活の場で実践させることに重きを置いた。
彼は儒学ばかりでなく地理学・天文学・暦学・軍学・剣道にも秀で「地球儀を作ってみたが一度見に来ないか」と弟子の一人に手紙を送っている。
宝暦9年(1759)76歳で没している。
(場所:2の土井候墓所のすぐ近く。山本方面から千々賀神田線のアーク工業手前の小高い丘。)



4)奥正岑の墓所 西寺町 自南寺
「奥流の学」の創始者奥東江の孫。奥家は東江亡き後代々土井氏の重臣として仕え、正岑も土井家家老を勤めた。
自南寺は吉武法命の高弟の一人で、虹の松原一揆の指導者として有名な冨田才治が、処刑前夜妻子と最後の別れをかわした所として知られ、境内には「種植えて土に戻るや土くじり」という辞世の句と首塚がある。
また、同じく吉武法命の弟子で陶工の中里太郎右衛門(4代・5代)と日羅坊(5代の弟、俳匠)の墓もある。
(場所:西寺町近松寺の1ブロック南。車は、自南寺の駐車場に止めます。墓の作りが吉竹法命のものと似ています。)



5)無量軒学校跡  海士町
無量軒学校は海士町学舎、新々斎とも呼ばれ、向学心に燃える若者達が吉武法命の学徳を慕い集まり互いに研鑽を積んだ所である。
自由な雰囲気の中での学談(討論)は時には深夜にまで及び、泊り込むことが多かったという。
法命の高弟であった向平蔵、冨田才治、大谷治吉、前田庄吉、稲葉半九郎等は法命に代わり講義をすることもあった。
無量軒は僧隠元が創始した黄檗宗の末寺といわれ、天和の飢饉や享保の飢饉の時には、ここで粥の炊き出しをしたり、餓死者を葬ったりしていることが古文書にみえる。
花崗岩で出来た供養塔は、天和の飢饉の餓死者を供養したものである。
(場所:国道202号東町交差点から東南、創価学会駐車場隣の小高い荒地にある。何の表示もないため、見過ごしやすい。)
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